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マテーラの歴史



フランコ・パルンボ、論説の寄稿者

サッシの眺望南イタリア・バシリカータ州のマテーラ市は世界でも古い街で、先史時代の塹壕村から洞窟教会にいたるまで、過去の痕跡を見ることができます。
V世紀からIV世紀までに、イオニア海、マグナ・グラエキア(イタリア南部の古代ギリシャ植民地)から来た住民がこの地域、マテーラに定住しました。
IX世紀からXI世紀にいたるまでギリシャ人の居住地であったマテーラの地域は、西暦580年、ランゴバルト人に征服されました。マテーラの街はベネヴェント軍の管理下に置かれました。
612年、ビザンテイン人がマテーラ街を包囲し、占領しました。994年、サラセン人が街を破壊し尽くしましたが、1000年の初期にビザンテイン人によって街は再建されました。
トラモンターノ城 ホーエンシュタウフェン王家に次いで、1042年にはノルマンの所有地となりましたが、1498年、フェルディナンドII世は封土をジアンカルロ・トルラピッロ伯爵に譲渡ました。彼はトルラピッロという小山に城を建造し始めましたが未完に終りました(西暦1519年)。
1500年から1663年まで、テッラ・デイ・オトラントに合併され、引き続き1663年から1806年までにバシリカータ州都になりました。1927年以来、マーテラは県都です。
一説によると、マテーラという名は(ヤピジャ地区の町)マテオラに由来するといいますが、他の説では(マテーラの近くの)メタポント(メタ)町とエラクレア(エラ)町の文字の合体によって命名されたといいます。
洞窟教会 VIII世紀からXIII世紀まで、聖像破壊の迫害のために、ローマとギリシアの修道士集団がマテーラの険しい峡谷と洞窟に逃げこみました。 洞窟を掘って打ち立てた生活は絶えることがありませんでした。なぜなら、ここに生活に必要な水と植物群があったからです。洞窟での生活文化が生まれたのです。
修道僧は故郷の洞窟に教会を掘り、同時にそれを住居に宛てていましたが、マテーラにも同じように掘りやすい岩山があったので, そこに祈りの場所と祭壇、居住部屋を建てたのです。
現在でも、多くの洞窟教会に彼らの芸術性の証し、像神聖のフレスコ画を見ることができます。
大聖堂 迫害が終わると、修道士たちはこの地域を捨て、洞窟には農民が家族と動物と共に移り住みました。
マテーラの旧市街地はサッシといい、カヴェオーソ・サッソ、バリサーノ・サッソという地区があります。
マテーラは他にないユニークな地域です。1993年、そのためににユネスコはサッシを世界遺産に登録しました。
サッソとは岩のことです。サッシは入り組んだ小道、家、洞窟教会、岩窟、広場、路地の集塊岩です。
サッソバリサーノには家と建物があり、かつてはマテーラの貴族が住んでいました。ある学者は、バリサーノという名はマテーラの貴族であったバリシウスに由来すると言いますが、他の学者は、バーリ町に面しているので、バリサーノと呼ばれるのだと言います。
サッソ・カヴェオーソでは家が下から上に向けて掘られ、建築されており、そのために家の屋根は他の家の床の役目を果たします。
カヴェオーソの名はこの地区の形に由来しますが、同時にマテーラの近くのモンテスカグリオーソ町に面しているからでもあります。
石窟住居には部屋が1つがだけありました。ここに大人、子供と動物とが一緒に住んでいたために、時には死亡率が出生率を上回ることもありました。
動物たちは人々が生き延びるための源でした。したがって、盗まれる恐れがあるので屋内に住まわせていました。動物の中ではロバが一番大切にされました。家から畑までの運送役をしていたからです。
石窟住居は水道水、トイレ、電気がありませんでした。
健康上よくないので、女子供は、(ヴィシナト)と呼ばれる住居前の中庭で殆どの時間を過ごしました。
この会社的現実は「キリストはエボリにとどまりぬ」("Cristo si è fermato ad Eboli")にカルロ・レーヴィ(Carlo Levi)が描いています。
これが前大統領・Alcide De Gasperiの目に留まり1952年にサッシの疎開に関する法律を公布しました。マテーラの人々は強制的にサッシの家を捨て新しい家に移住させられました。現在、サッシの家は国有財産になっています。
マテーラの街は、特殊な地域なので、いくつかの映画のシナリオになりました。ラットゥァダ監督の("La Lupa")(1953年)、パソリニ監督の(マタイによる福音書)("Il Vangelo secondo Matteo")(1964年)、最近ではメル・ギブソン監督の(パッション)が撮影されました。

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